毎月、月末は思いつく事を書いてみる日と決めているので(今月から。)
今日は「自由」をテーマに書いてみようと思います。
コメントをくれても、ホームページのメールフォームでメッセージをくれても、ひっそりと胸の内で答えてくれても、何か感じるだけでも、別に何も感じてくれなくても、最後まで読んでも、速攻でウインドウを閉じてもいいです。
それは自由です。
って書くと誰もリアクションしないよね。笑
※本文と全く関係ありません。
「自由って一体なんだい?
どうすりゃ自由になるかい?」
「自由になりたくないかい?
熱くなりたくはないかい?
自由になりたくないかい?
思うように生きたくはないかい?」
これは自由を求め続け、自由の意味を探し続けた尾崎豊の歌の一節!
熱烈な尾崎ファンでもないけど、尾崎は何か共感できるというか曲と共に考えさせられる事が多いので、よく聴いたり歌ってみたりしていました。
余談でした。
若かりし頃の一時の疑問だったかもしれない。
けど、実は少年、青年の時代を経てもなお
心の奥底で問い続ける疑問だろうと思う。
少なくとも、僕はそうだ。
「自由を失わない。」
それは問い続けることじゃないか?
自分自身の今を見つめなおし、
この生き方は間違ってないだろうか?
そう問い続けることじゃないか?
「生き方」なんて大それたことじゃなくても。
皆さんもどれか一つくらい経験があるであろう、僕のごく日常的な選択シーンを下記に。
このパンにしようか、それともおにぎりにしておこうか?
いや、帰って自炊しようか?
こっちのショーウィンドウの華やかな道から帰ろうか、それともあっちの静かな道から帰ろうか?
今夜、ビールは1缶だけにしておこうか、それもとたまには友人誘って居酒屋いっちゃおうか?
ステロイドの入った薬でとりあえず症状を抑えようか、それとももうちょっとだけかゆみ止めで様子を見ようか?
おばちゃんたちの世間話に付き合おうか、それとも帰って勉強しようか?
会社を辞めようか、それとも残ってもう1年頑張ってみようか?
この思いをブログに書こうか、そんな事に時間を費やさずに勉強しようか?
街角のアンケートに答えようか、面倒そうだからやめておこうか?
手相を勉強しているという学生さんに声を掛けられたけど、みてもらおうか、やめておこうか?
今年はなんとか帰省しようか、それとも帰らずに仕事を片付けようか?
このメールを送ろうか、やめておこうか?
ストリートミュージシャンの演奏が気になるけど、少し足をとめてみようか、帰ってドラマを見ようか?
今日は広いお風呂で癒されたいから銭湯でも行こうか、それとも家の風呂で好きな歌でも歌いながらのんびり浸かろうか?
明日の朝は目覚ましにラジオをかけようか、それとも明日もシンディローパーをかけようか?
かように、ぱっと思いつくだけでも日常にこれだけの選択をする機会があります。
何も無理に選択しなくてもいいけど、それも「選択しないという選択」です。
「別の選択肢を探す」という選択もあります。
そこで、
「選択の自由。」
僕は「これまで選択の自由を失ったことは一度もない」と言いたい。
けれども、
実際はあるわけです。(リアルな話をしても逆にわかりづらいので、たとえ話にします。)
それは誰かに明らかに妨害されて、という分かりやすい形ではなく
「知らず知らずのうちに自由を奪われる。」という事で
それが人生において最も避けたい事なんじゃないかと思われます。
言い換えますか。
「周りに流される。」とか
「その選択をしないと、その場が収拾つかない。」とか
それはたとえば
新入社員歓迎の飲み会の席で
本当はまったりのんびり、近くの席の人あたりと談笑していたいのに
A「アムロの物まね出来るんだってー?」
B「マジでー!!!???」
C「アムロー!!!!!」
D「アームーロッ!アームーロッ!」
その他大勢「(期待の目で見つめる)」
自分「(しかたないなぁ・・・)」
っていうパターン(その①)。
もしくは
「あたかもその選択しかないんじゃないか、と思い込まされる。」とか(パターン②)
たとえば安月給カメラマンだった頃の自分(仮)。
写真スタジオ勤務、某談話室にて
E「いやー、写真家ならYカメラマンを知らないのはモグリだよね」
F「ですよね。っていうか、このYカメラマンの写真抜きで写真について語る事は出来ないですよね。」
G「知らないなら、絶対今日中に写真集買わないとダメだね。」
自分「じゃ・・・じゃあ・・・今月お金ないんで立ち読みしてみます。」
E「立ち読みって・・・そんなんだからいつまでたっても趣味レベルなんだよ」
自分「僕はZカメラマンが好きなんですけど」
一同「アレはないね。見る価値無いよ。」
そこにあらわる、尊敬するメインカメラマンのHさん
Hさん「あぁ、Yカメラマンね。俺もその人の写真集がきっかけでこの業界に入ったんだよ。」
G「本気でやりたいんだったら、まずは本物を知らないとね。」
自分「へえ~そんなにいいんですか~。」
Hさん「いいっていうか、基本だよね。」
自分「Zカメラマンはどうですか?」
Hさん「Zカメラマン?あれはないねー。」
一同「ですよねー。」
かくして、自分はYカメラマンの写真集を買おうと決意。
それは自由ですか?
一見、本人の自由です。
”始めは乗り気じゃなかったけれども、尊敬するHさんの勧めという事ですっかり購買意欲が芽生えた。”
そう捉えることが出来ます。
しかし、その購買意欲が芽生えるまでのプロセスを見て下さい。
本当に自由な状況であったと言えるでしょうか。
見えない権威に支配されている自分はいなかったでしょうか。
買って、写真集を開いた後でも・・・
「うーん、普通の写真集のような・・・いや、Hさんもイイって言っていたしこれはイイ写真なんだろうな。いいような気がしてきた。うん、これはイイかも!イイ!」
なんて思い込み。
選択という行為は、今までの自分の生きてきた中での経験(や記憶)を元に、その選択が自分なりに正しいと思えるかどうかの判断で行われるべきものだと思います。
たとえ客観的には流されているように見えても、自ら流されようという意思を持って流されるべきだと思うのです。
少々わかりづらい文章になってしまいましたが、
「みんながいいって言ってるんだから、いいのかも」と、何割かでも”他人の意見に委ねているという自分”をしっかり認識出来ているうちは、OK。
「みんながいいって言ってるんだから、いいような気がしてきた」と、そこに自分の意思が存在していないのなら、それはNG。
どのへんから自由が奪われ始めたのかというのは難しいところですが、
「みんなイイって言うけど、僕はちょっとなあ」
という疑問から、徐々に
「買わないとカメラマンとしてダメなのかも」
と、強迫観念から物事の本質を見極める事を後回しにして、
人の意見ばかりを尊重し始めてしまっているあたりなんじゃないでしょうか。
文章や例えが下手ですが
「心理誘導」という言葉があるかは知りませんが
物事の本質を見極める自由の上に、遮光幕を覆い被せてしまう。
そんな事が人生には多々あると思います。
それが結果として人生にプラスになるなら結果オーライかもしれない。
けど、自分の意思が機能しなくなるリスクを背負う(自由が奪われる)可能性があるのなら、出来るだけ(例え話でいうなら「談話室」を)避けて通るのは悪い選択じゃないのかもしれない。
さて、僕は明日一日も自由な意志で過ごせるだろうか。
たまに考える事です。
今日は「自由」をテーマに書いてみようと思います。
コメントをくれても、ホームページのメールフォームでメッセージをくれても、ひっそりと胸の内で答えてくれても、何か感じるだけでも、別に何も感じてくれなくても、最後まで読んでも、速攻でウインドウを閉じてもいいです。
それは自由です。
って書くと誰もリアクションしないよね。笑
※本文と全く関係ありません。
「自由って一体なんだい?
どうすりゃ自由になるかい?」
「自由になりたくないかい?
熱くなりたくはないかい?
自由になりたくないかい?
思うように生きたくはないかい?」
これは自由を求め続け、自由の意味を探し続けた尾崎豊の歌の一節!
熱烈な尾崎ファンでもないけど、尾崎は何か共感できるというか曲と共に考えさせられる事が多いので、よく聴いたり歌ってみたりしていました。
余談でした。
若かりし頃の一時の疑問だったかもしれない。
けど、実は少年、青年の時代を経てもなお
心の奥底で問い続ける疑問だろうと思う。
少なくとも、僕はそうだ。
「自由を失わない。」
それは問い続けることじゃないか?
自分自身の今を見つめなおし、
この生き方は間違ってないだろうか?
そう問い続けることじゃないか?
「生き方」なんて大それたことじゃなくても。
皆さんもどれか一つくらい経験があるであろう、僕のごく日常的な選択シーンを下記に。
このパンにしようか、それともおにぎりにしておこうか?
いや、帰って自炊しようか?
こっちのショーウィンドウの華やかな道から帰ろうか、それともあっちの静かな道から帰ろうか?
今夜、ビールは1缶だけにしておこうか、それもとたまには友人誘って居酒屋いっちゃおうか?
ステロイドの入った薬でとりあえず症状を抑えようか、それとももうちょっとだけかゆみ止めで様子を見ようか?
おばちゃんたちの世間話に付き合おうか、それとも帰って勉強しようか?
会社を辞めようか、それとも残ってもう1年頑張ってみようか?
この思いをブログに書こうか、そんな事に時間を費やさずに勉強しようか?
街角のアンケートに答えようか、面倒そうだからやめておこうか?
手相を勉強しているという学生さんに声を掛けられたけど、みてもらおうか、やめておこうか?
今年はなんとか帰省しようか、それとも帰らずに仕事を片付けようか?
このメールを送ろうか、やめておこうか?
ストリートミュージシャンの演奏が気になるけど、少し足をとめてみようか、帰ってドラマを見ようか?
今日は広いお風呂で癒されたいから銭湯でも行こうか、それとも家の風呂で好きな歌でも歌いながらのんびり浸かろうか?
明日の朝は目覚ましにラジオをかけようか、それとも明日もシンディローパーをかけようか?
かように、ぱっと思いつくだけでも日常にこれだけの選択をする機会があります。
何も無理に選択しなくてもいいけど、それも「選択しないという選択」です。
「別の選択肢を探す」という選択もあります。
そこで、
「選択の自由。」
僕は「これまで選択の自由を失ったことは一度もない」と言いたい。
けれども、
実際はあるわけです。(リアルな話をしても逆にわかりづらいので、たとえ話にします。)
それは誰かに明らかに妨害されて、という分かりやすい形ではなく
「知らず知らずのうちに自由を奪われる。」という事で
それが人生において最も避けたい事なんじゃないかと思われます。
言い換えますか。
「周りに流される。」とか
「その選択をしないと、その場が収拾つかない。」とか
それはたとえば
新入社員歓迎の飲み会の席で
本当はまったりのんびり、近くの席の人あたりと談笑していたいのに
A「アムロの物まね出来るんだってー?」
B「マジでー!!!???」
C「アムロー!!!!!」
D「アームーロッ!アームーロッ!」
その他大勢「(期待の目で見つめる)」
自分「(しかたないなぁ・・・)」
っていうパターン(その①)。
もしくは
「あたかもその選択しかないんじゃないか、と思い込まされる。」とか(パターン②)
たとえば安月給カメラマンだった頃の自分(仮)。
写真スタジオ勤務、某談話室にて
E「いやー、写真家ならYカメラマンを知らないのはモグリだよね」
F「ですよね。っていうか、このYカメラマンの写真抜きで写真について語る事は出来ないですよね。」
G「知らないなら、絶対今日中に写真集買わないとダメだね。」
自分「じゃ・・・じゃあ・・・今月お金ないんで立ち読みしてみます。」
E「立ち読みって・・・そんなんだからいつまでたっても趣味レベルなんだよ」
自分「僕はZカメラマンが好きなんですけど」
一同「アレはないね。見る価値無いよ。」
そこにあらわる、尊敬するメインカメラマンのHさん
Hさん「あぁ、Yカメラマンね。俺もその人の写真集がきっかけでこの業界に入ったんだよ。」
G「本気でやりたいんだったら、まずは本物を知らないとね。」
自分「へえ~そんなにいいんですか~。」
Hさん「いいっていうか、基本だよね。」
自分「Zカメラマンはどうですか?」
Hさん「Zカメラマン?あれはないねー。」
一同「ですよねー。」
かくして、自分はYカメラマンの写真集を買おうと決意。
それは自由ですか?
一見、本人の自由です。
”始めは乗り気じゃなかったけれども、尊敬するHさんの勧めという事ですっかり購買意欲が芽生えた。”
そう捉えることが出来ます。
しかし、その購買意欲が芽生えるまでのプロセスを見て下さい。
本当に自由な状況であったと言えるでしょうか。
見えない権威に支配されている自分はいなかったでしょうか。
買って、写真集を開いた後でも・・・
「うーん、普通の写真集のような・・・いや、Hさんもイイって言っていたしこれはイイ写真なんだろうな。いいような気がしてきた。うん、これはイイかも!イイ!」
なんて思い込み。
選択という行為は、今までの自分の生きてきた中での経験(や記憶)を元に、その選択が自分なりに正しいと思えるかどうかの判断で行われるべきものだと思います。
たとえ客観的には流されているように見えても、自ら流されようという意思を持って流されるべきだと思うのです。
少々わかりづらい文章になってしまいましたが、
「みんながいいって言ってるんだから、いいのかも」と、何割かでも”他人の意見に委ねているという自分”をしっかり認識出来ているうちは、OK。
「みんながいいって言ってるんだから、いいような気がしてきた」と、そこに自分の意思が存在していないのなら、それはNG。
どのへんから自由が奪われ始めたのかというのは難しいところですが、
「みんなイイって言うけど、僕はちょっとなあ」
という疑問から、徐々に
「買わないとカメラマンとしてダメなのかも」
と、強迫観念から物事の本質を見極める事を後回しにして、
人の意見ばかりを尊重し始めてしまっているあたりなんじゃないでしょうか。
文章や例えが下手ですが
「心理誘導」という言葉があるかは知りませんが
物事の本質を見極める自由の上に、遮光幕を覆い被せてしまう。
そんな事が人生には多々あると思います。
それが結果として人生にプラスになるなら結果オーライかもしれない。
けど、自分の意思が機能しなくなるリスクを背負う(自由が奪われる)可能性があるのなら、出来るだけ(例え話でいうなら「談話室」を)避けて通るのは悪い選択じゃないのかもしれない。
さて、僕は明日一日も自由な意志で過ごせるだろうか。
たまに考える事です。
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